シャイム・スーティン SOUTINE, Chaïm
アーティスト artist 1913年、友人のピンクス・クレメーニュ、ミシェル・キコイーヌと共にパリに出たスーティンはしばらくエコール・デ・ボザールでフェルナン・コルモンのアトリエに通い、エミール・ベルナールに師事すると共に集合アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」の仲間と交際するようになる。そこではマルク・シャガール、フェルナン・レジェなどが集団生活をしていたが、特にアメデオ・モディリアーニは野生児も同然だったスーティンの面倒をよく見ており、彼によるスーティンの肖像画が3点残されている。モディリアーニは、1枚も絵が売れず「汚し屋」と酷評されたスーティンを知り合いの画商の元に連れて行き、彼の絵の良さを説明して無理やり絵を買わせたという。のちにフランス人のポール・ギヨーム、ポーランド人のレオポルド・ズボロフスキーなどスーティンの絵を扱う画商は現れたが、依然彼の絵はなかなか売れず生活は相変わらず貧しかった。また、当時パリに在住していた藤田嗣治とも親交を持った。 1920年にモディリアーニが亡くなったあたりからスーティンの作風に変調が生じる。パリでの人間関係を避け、1919年から1922年にかけて滞在した南仏セレで描かれた一連の風景画は構図、タッチ共に激しく歪んでおり、精神的不安が反映されている。 そうした中1923年1月1日、バーンズ・コレクションで名高いアメリカの大コレクター、アルバート・C・バーンズがギヨームの画廊を訪れ『ケーキ職人』(1919年)を見て感動、画廊に掛かっているスーティンの全作品を3,000ドルで買上げた。バーンズは「スーティンはゴッホよりもはるかに重要な画家である」と絶賛した。 アメリカで展示されたスーティンの作品は大きな衝撃を与え、フランス国内の評価も一気に上がった。パリで最初の個展も開かれ、「巨匠」になったスーティンは絵が売れ出してからは豪邸に住み、運転手付きの生活を送ったという。 だが晩年は再び貧困に陥り、1933年以降は殆ど創作しなくなった。1940年にフランスにドイツが侵攻した後、ユダヤ人であるスーティンはゲシュタポから逃れる為、フランス中部の村々を転々とした。その過酷な暮らしの中で持病の胃潰瘍を悪化させ、1943年に穿孔性潰瘍のためパリで手術を受けた直後に没した。墓はパリのモンパルナス墓地の西北域にある。
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