Art + Culture

ヘルター・スケルター チェーンソーを使って、シュード・クリティック椹木野衣のファックドアップ平成美術 (笑) Helter Skelter chainsawing pseudo-critic SAWARAGI Noi likes to fuck things up: "Art during the Era of Japanese Emperor (Emeritus) Akihito’s Reign" (lol)

藤田嗣治-天皇陛下伊勢の神宮に御参拝
藤田嗣治-天皇陛下伊勢の神宮に御参拝

Mike Kelley. Art doesn’t have anything about power relationship. It’s simply but fucking things up with the pure pleasure of fucking them up. The only social function of art is to fuck things up. It has no other social function. Purposely purposeless.

Fuck yeah, 野衣くん Noi-kun, you did it, together with your wife Yuko, again. So many peers took your show seriously, but you both are the ones who have the last laugh.
Easily we recognise the Japanese artists’ and curators’ “message”:
D・E・S・T・R・O・Y 。

Fuck copyright, let’s put together some voices, for future archival purposes, to get an idea of the mediocre show you curated.
ノイエ・キュラトリアル・ディスファンクショナル・プラクティス
Obviously, I really dislike exhibitions in Japan, which are contextualised in the era of a Japanese Emperor, the TENNO 天皇, head of the religious 神道 SHINTO-ism.
平。
成。
美。
術。
.
Mama mia!
母母

Link to the show in question:

Kyoto City KYOCERA Museum of Art
Bubbles / Debris: Art during the Era of Japanese Emperor (Emeritus) Akihito’s Reign 1989–2019
2021/1/23 – 4/11
『平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989-2019』展
2021年1月23日~4月11日
京都市京セラ美術館、東山キューブ
https://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20210123-0411

市原研太郎評論家、亜 真里男、ミヅマアートギャラリーオーナーの三潴末雄さん、ミヅマ アートギャラリー、東京青山、2001年8月10日
市原研太郎評論家、亜 真里男、ミヅマアートギャラリーオーナーの三潴末雄さん、ミヅマ アートギャラリー、東京青山、2001年8月10日
Mussolini (2004) Mario A Solo Exhibition @ ミヅマ アートギャラリー MIZUMA ART GALLERY, Toyko 2004
Mussolini (2004) Mario A Solo Exhibition @ ミヅマ アートギャラリー MIZUMA ART GALLERY, Toyko 2004

pic taken from:
例えば:ソーシャル・プラスチック Zum Beispiel: Soziale Plastik
https://art-culture.world/articles/soziale-plastik-ソーシャル・プラスチック/

The rest would be a waste of time, for the readers, – and me, – and you.
The majority of people casually feigning interest in art simply for the free Sake and red wine, a dose of petty gossip, and a reason to wear their most recent COMME des GARÇONS purchase. lol

野衣くん Noi-kun, stop making sense.

Today, let’s celebrate Prince’s life on the 5th anniversary of his death. My 20 min. of writing may be hereby over, because of Purple Rain.
ファック イェー!!! FUCK YEAH!!!
https://art-culture.world/articles/fuck-yeah-ファック-イェー!!!/

田中功起 koki tanaka →新刊『リフレクティヴ・ノート(選集)』
@kktnk, Apr 21, 2021
「平成美術」展を見て疑問に感じたひとにはぜひ読んでほしいです。椹木さんによる「悪い場所」話と絡めて、短いですが、「平成美術」の根本的な問題を真正面から批判してます。ほんとは美術批評家たちが指摘すべきことだと思うけど、きっとしがらみがあるかスルーみたいなので。
Link_https://twitter.com/kktnk/status/1384875109236846593

日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(6) 頭のなかの闇(その2)――3月16日から4月19日|田中功起

引用 quotes:

この展覧会にはさまざまな問題がある[★1]。
 けれども、ここでは日本を自然災害の国であるととらえるという視点だけに着目する。災害の国であるということは、つまり自らを被災者/被害者ポジションに置くことを意味する。
 これがどうして問題なのか。「平成美術」にはジェンダーの意識も、エスニシティの意識も希薄だった。逆に言えば災害が優先されることで、自ずと他の問題は手つかずになったのだろう。在日コリアンをめぐる問題は日本の戦争加害の問題に直結する。しかし災害のメタファーは日本を被害者として固定化し、別のポジションからの(例えば加害者としての)語りを封殺してしまう。椹木さんは日本の現代美術を、その災害のメタファーによって被害者化する。世代が変わるたびにリセットされ、一からやりはじめる(とされた)日本の現代美術。災害によって何度も建物を建て直すことと、それは同じようなものとして描かれる。被害者としての現代美術、椹木さんはそれを「悪い場所」と呼んでさらに強固なものにする。被害者ポジションは周囲からの批判をはね除け、自己批評性を失い、流動性がなくなっていく。しかしことはそれで終わらない。被害者ポジションへの固定化(あるいは「悪い場所」という固定化)はさらにやっかいな問題にも繋がる。ナショナリズムである。体制批判であったオルタナティブが結果的に権威になり保守化することはよくあるのだが、「平成美術」はそれ以上の状況をぼくたちに突きつける。
 
 じつはこのように考えたのにはきっかけがある。同様の問いは、とある学生から受けたことがあった。以前、韓国系カナダ人の大学院生から連絡があり、彼女の論文のためにインタビューを受けたことがある。彼女は自分の調査のためわざわざ京都のぼくのスタジオを訪ねてきた。インタビューの最後に彼女は次のような意味合いの問いをぼくに投げかける。災害についてのあなたのアートは人間的な共感を誘発します。しかしそれは日本人にとって、あるいは日本政府にとっても、都合がいいものかもしれません。なぜなら災害によって日本は被害者としての立場を取ることができます。これは歴史認識をめぐる争いのなかでも、(アメリカとの関係において)戦争被害者としての立場を取ろうとする日本にとって親和性が高い。つまり災害についてのアートは被害者としての日本の立場を強化する。それはナショナリストに利用される可能性がありますよね? 人間的な共感を誘う被害者としての立場を免罪符にして加害の事実を棚上げし、ナショナリストに都合よく利用されるかもしれない。もちろんあなたのアートはナショナリズムとは無関係かもしれない。でも関連づけられてしまう可能性も否定できないと思う。
 インタビューの現場では彼女の問いかけはもうすこし曖昧だった。メールで改めて聞き直すと、ここに書いたような内容のことを送ってきてくれた。それ以後、ぼくの部屋には彼女のメールがずっと貼ってある。
 
 ぼくは「平成美術」を見ながらこの問いを思い出していた。昭和天皇の即位を記念して作られた日本でもっとも古い近代的な美術館、それも帝冠様式という戦前の建築様式が使われている美術館で、平成という元号をもとにした美術展が行われているということ。そこだけを取り出せばめちゃめちゃ右傾化した展覧会として見ることもできると思う。極めつけは、展覧会の最後に設えてある「100 Japanese Contemporary Artists」というオンライン番組。これはコレクティブとして参加している宇川直宏(DOMMUNE)によるシリーズだ。100名の日本(人)の現代芸術家。たくさんのモニターが横一列に並び、そこに映っているのは、主に日本人の男性芸術家、男性批評家、男性学芸員たち。もちろん女性も、少しだけ、いる。例えばそれは「突然、目の前がひらけて」のアーティストたち(ここでも彼女たちの女性性に頼りすぎではないか)。さらにそこには100名の日本(人)の現代芸術家として在日コリアンのアーティストもいる(鄭梨愛さんと李晶玉さんはその扱いをどう思っていたのだろうか)。日本(人)の現代芸術家という枠組みのなかに、何のエクスキューズもなく在日コリアンのアーティストを混ぜ込むという無神経さ[★2]。ちょっとどうかしてない? ひどすぎない? マジョリティによるマイノリティの収奪。ポスト・コロニアルとかなかったことになっているのかな。家父長的で、権威的な、ナショナリズムとしての、日本の、美術展の完成形。気持ち悪い……。それが正直な印象だった。

full text:
https://genron-alpha.com/gb060_02/

KOIZUMI Meiro 小泉明朗作 「The Symbol #3」2018, Charcoal on paper and wooden frame, Annet Gelink Gallery
KOIZUMI Meiro 小泉明朗 「The Symbol #3」2018, Charcoal on paper and wooden frame, Annet Gelink Gallery

Facebook, Tetsuya Ozaki
April 5 at 2:39 PM ·
REALKYOTO FORUM:福永信さんが、開催中の『平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989–2019』展のレビューを寄稿してくださいました。企画・監修者、椹木野衣氏の意図を推測し、展覧会の本質を的確に抽出・指摘しています。細部についての苦言もありますが、オリジナリティあふれる展覧会に注ぐまなざしは基本的に温かい。肝心の展覧会は4/11(日)まで。未見の方は京都市京セラ美術館にお急ぎください。

Mario Ambrosius
Thx for sharing. I didn’t see this exhibition in person, but via the internet. The title and the picked up artists groups might be interesting in their art practices, however I don’t understand why on earth we should contextualise a certain religious time calendar. “Art of the Heisei Period” 平成美術 is for the non-initiate quite misleading. A truly fucked-up title. If he thinks the period after 1989 brought debris, see his time-line-wall of historical events, the contrary has to be said. The Fall of the Berlin Wall and the implementation of the Euro brought an era of prosperity and happiness to the world, including Japan. Next, why on earth do I miss several artists, who still are much more important and influential during this era? Picking up a certain number of “artist groups”, (obviously affiliated to a certain behind-the-scene relationship), plus, I don’t regard UKAWA Naohiro as a group, manifests how the intentional, irresponsible, curational practice backfired. Ignoring for example the influential Xijing Men, Kaikai Kiki artists group (not identical with the “Geisai-festival”), shows in what dilemma the curator put himself in. Last, to be over the top, he should have had exhibited works by artists groups like NITTEN 日展, INTEN 院展 and Hakujitsukai 白日会展.

Tetsuya Ozaki
Hi Mario, thank you for your provocative comment. A few words: the relationship is not “behind-the-scene”, it is obvious.

screenshot from Ozaki’s FB page
screenshot from Ozaki’s FB page
my comment @ Ozaki’s FB page, screenshot
my comment @ Ozaki’s FB page, screenshot

Watch out the “wrong translation” of the title.
Bubbles / Debris: Art during the Era of Japanese Emperor (Emeritus) Akihito’s Reign 1989–2019

REAL KYOTO FORUM
REVIEWS & ARTICLES
Review
Bubbles / Debris: Art of the Heisei Period 1989–2019
Text: Fukunaga Shin
2021.04.16
In 1999, Sawaragi Noi curated the exhibition“Ground Zero Japan” at Art Tower Mito. What made “Ground Zero Japan” so radical was that it was actually the practice/application of Sawaragi’s 1998 critical essay Nihon/Gendai/Bijutsu (Japan/Modernity/Art). Revolutionary, hitherto unheard-of ideas like this acrobatic connecting of the disconnect between art criticism and art exhibition (work) are typical of Sawaragi Noi.
continue, full text:
https://icakyoto.art/en/realkyoto/reviews/84926/

日本語のReview
平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989-2019
2021.04.05 文:福永 信
1999年/平成11年、椹木野衣は『日本ゼロ年』展をキュレーションした。この展覧会が画期的だったのは、長編評論『日本・現代・美術』(1998)の実践/応用編だったことだ。評論と展覧会(実作)との断絶を、アクロバティックに接続する、このような誰も思いつかない斬新なアイデアは、彼の特徴である。
日本語へ:
https://icakyoto.art/realkyoto/reviews/84892/

昭和天皇・東京地下鉄 1989年1月7日
昭和天皇・東京地下鉄 1989年1月7日
天皇皇后両陛下5
Their Majesties the Emperor and Empress of Japan 天皇皇后両陛下 (2019, 平成30年)

https://art-culture.world/articles/portrait-painting-of-their-majesties-the-emperor-and-empress-of-japan/

ここに載せた写真とスクリーンショットは、すべて「好意によりクリエーティブ・コモン・センス」の文脈で、日本美術史の記録の為に発表致します。Creative Commons Attribution Noncommercial-NoDerivative Works photos: cccs courtesy creative common sense