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「Der Bauch muss weg。」小澤征爾とヘルベルト・フォン・カラヤン Der Bauch muss weg. OZAWA Seiji und Herbert von Karajan

小澤征爾とヘルベルト・フォン・カラヤン
小澤征爾とヘルベルト・フォン・カラヤン

OZAWA Seiji vigorously wanted this photo with him kneeing in front of his master Karajan to be published.
Karajan gave his consent for publication on condition that his belly would be retouched.
My Japanese landlady in the 80s was a piano teacher and a friend of Ozawa.
She told me some stories that are not meant for the public.
There was a time in my life when I wanted to visit the close trio of Ozawa, TAKEMITSU Toru and YOSHIDA Hidekazu.
I managed to visit Takemitsu at his villa near Karuizawa and Yoshida at his wooden house in Kamakura.
I had always put off Ozawa, as I waited for a chance to come and enjoyed his concerts.
I saw 4-year-old Anne-Sophie Mutter play the violin for the first time in my neighborhood. Her brother was my classmate. The last time I saw her play the violin was at the Suntory Concert Hall here in Tokyo.
Maestro, Ruhe nun in Frieden.

小澤征爾は、師カラヤンの前で膝をついているこの写真の掲載を強く希望した。
カラヤンは、腹をレタッチすることを条件に掲載を承諾した。
80年代、私の日本人の大家はピアノの先生で、小澤の友人だった。
彼女は、一般には公開されないような話をいくつか教えてくれた。
小澤、武満徹、吉田秀和の仲良しトリオを訪ねたいと思った時期があった。
武満は軽井沢近くの別荘に、吉田は鎌倉の木造家屋に行くことができた。
小澤はずっと後回しにしていたので、来る機会を待ってコンサートを楽しんだ。
私は近所で4歳のアンネ=ゾフィー・ムターがヴァイオリンを弾くのを初めて見た。彼女の兄は私の同級生だった。彼女がヴァイオリンを弾くのを最後に見たのは、ここ東京のサントリー・コンサートホールだった。
Maestro、Ruhe nun in Frieden.

亜 真里男 Mario A, Tokyo, den 9. Februar 2024

長坂道子MichikoNagasaka 初めての翻訳小説「ジャコブ、ジャコブ」発売になりました
@fairytaleselect
有料記事ですが、この訃報に泣いている友人に送るためにプレゼント機能を使いました。24時間、どなたでも読めるそうなのでよろしければどうぞ。

小澤征爾 OZAWA Seiji 1961
小澤征爾 OZAWA Seiji 1961

25歳で見せた歴史的瞬間、西洋に起こした革命 小澤征爾さんを悼む
編集委員・吉田純子2024年2月9日

「小澤の目力」という言葉を、楽員たちからよく聞く。目が合った瞬間、無意識に音が出てしまう。なのに、なぜか他の奏者たちとぴったりそろってしまうのだと。

 制するのではなく、技術と気の独創的な融合により、壁を壁とせず、東洋人にクラシックはできないという偏見に挑戦状を突きつけてきた。規格外の才能を花開かせたのは、やりたいことを絶対にやり抜く意志力、桁外れの行動力、そして愛すべき無鉄砲さだった。

1950年代末、1台のスクーターと貨物船に乗り、63日かけて欧州へ。日の丸付きのヘルメットをかぶり、ギターを背負って国から国へ。

 パリに漂着し、腕試しにと受けたブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。ほかのコンクールもどんどん勝ち抜き、カラヤンに弟子入りし、名門ニューヨーク・フィルの副指揮者に大抜擢(ばってき)。躍進ぶりも規格外だった。

 「ねえ先生。僕、バーンスタイン先生に教えてもらいにアメリカに行ってもいいかな」

 そう、帝王と呼ばれたカラヤンにも屈託なく尋ねた。周囲からライバル扱いされていた2人だが、小澤さんにとっては最高の音楽を奏でる「同志」でしかなかった。物おじしない奔放な振る舞いを保守的な日本の楽壇がもてあまし、対立したNHK交響楽団に公演をボイコットされる事件も起きた。

小澤さんのベースとなった恩師・斎藤秀雄の指揮法は、西洋の音楽家にとっては自明のやり方を、他の文化圏の人々のために「翻訳」したものといえる。西洋人の「言葉」を自分たちのやり方で体得し、コンプレックスを超え、胸を張って自分たちの歌を歌おう。小澤さんはそんな斎藤の夢を背負い、彩りとニュアンスに満ちた音響を己の感性でたぐり寄せた。「外様にしか見つけられない本質もある」。そして小澤さんは、日本人の感性で西洋を説得するという革命を起こした。

 61年、ニューヨーク・フィルを率いて初来日したバーンスタインが、当時25歳の小澤さんを舞台に呼び込んだ。口元をぎゅっと結び、指揮台でぶるっとひと震い。閃光(せんこう)のようにタクトを振り下ろし、自身の愛する黛敏郎の「バッカナール」で百戦錬磨の楽員たちと火花を散らした。戦後初めて、米国と対等に渡り合う日本の芸術家の姿が聴衆の心に深く刻まれた、歴史的な瞬間だった

 誰にも壁をつくらない生き方は、教育や啓蒙(けいもう)に対する情熱をも培った。「普通の人や子どもたちにこそ、真剣に向き合わなきゃ」。これは、志半ばで逝った盟友、山本直純との約束でもあった。

 最後の10年は、相次いで襲ってくる病をかいくぐり、執念で指揮台に立ち続けた。力が抜けて軽みを増した指揮からは、楽員との即興的なやりとりが、より鮮明に浮かび上がるようになった。

 ある日の終演後の楽屋で、そんな感想を小澤さんに伝えると「そう! 僕はシンフォニー(交響曲)でオペラをやりたいんだよ」。対話の権化であるオペラの精神を、言葉や文化の壁のない楽器だけで実現する。そんな理想郷を小澤さんは生涯目指し、音楽の伝統を継ぐ「職人」のひとりとして国境を越え、欧州の伝統の系譜に連なった。(編集委員・吉田純子)

https://digital.asahi.com/articles/ASS295Q4FS29UCVL02Z.html?ptoken=01HP6RY35Z1C7BNK5G724MJF2R


2024/2/9
小澤征爾さんが世界に飛び立つ転機“N響事件”とは 三島由紀夫、石原慎太郎らが団結 「敬意と感謝」追悼

 世界的な指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが6日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。88歳。旧満州生まれ。
 米ボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めるなど国際的に活躍し、「世界のオザワ」として幅広い人気を集めた小澤さんは、桐朋学園で斎藤秀雄氏に指揮法を学んだ。1959年にフランスのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、一躍脚光を浴びた。カラヤン、バーンスタインら名指揮者に師事し、米サンフランシスコ交響楽団音楽監督などを歴任。海外で活躍する日本人指揮者の先駆けになった。73~2002年にボストン交響楽団の音楽監督を務め、世界的な評価を確立した。
 その小澤さんが、日本から世界に飛び出すきっかけとなったと言われているのが、1962年に起きた“N響事件”だった。小澤さんが26、27歳の時、NHK交響楽団(N響)と半年間「客演指揮者」として契約。その後、さらに契約延長し精力的に活動を行っていたが、香港、シンガポール、クアラルンプール、マニラなどで公演を行う海外ツアー中に楽団員と小澤さんの間に軋轢(あつれき)が生じる。さら同年11月に行われた定期公演の一部酷評報道が決定打となり深刻な対立に発展した。
 同年11月16日にN響演奏委が「今後、小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。小澤さんとNHKは折衝を重ねたが折り合わず、逆に小澤さんは契約不履行と名誉毀損で訴える事態となってしまった。
 そしてこの騒動はその後、政財界を巻き込む社会問題、世代間闘争に発展。浅利慶太、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、谷川俊太郎、三島由紀夫、由起しげ子ら演出家や作家が「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、NHKとN響に質問書を提出。芥川也寸志ら若手音楽家約10人が事件の真相調査に乗り出した。最終的には、翌1963年1月にNHK副理事と小澤さんが話し合いの場を持ち、一応の和解が成立した。しかし、N響に復帰というわけではなかった。
 この“N響事件”は小澤さんに大きなショックを与え、「もう日本で音楽をするのはやめよう」と活動の舞台を世界に移していった。そこから数々の「日本人初」の偉業を成し遂げた“世界のオザワ”。小澤さんが次にN響の指揮台に立つのは、32年3カ月後の1995年1月だった。
 小澤さんの訃報を受け、NHK交響楽団は公式X(旧ツイッター)で追悼メッセージを投稿。【指揮者 小澤征爾さんの訃報に接し】と題して「今月6日、日本を代表する指揮者、小澤征爾さんが心不全で逝去されました。享年88。小澤さんは1958年9月にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。その後カラヤン、ミンシュ、そしてバーンスタインらの薫陶を受け、1961年7月にはストラヴィンスキー《ペトルーシカ》などの放送収録でN響を初めて指揮しました。翌1962年6月には27歳にしてN響の客演指揮者として契約を結び、メシアン《トゥランガリラ交響曲》の日本初演(7月)、東南アジア演奏旅行(9月~10月)などを成功に導くなど、N響に目覚ましい成果をもたらしました。その後小澤さんがN響を指揮する機会は長く途絶えましたが、1995年にチャリティコンサートで33年ぶりの共演が実現し、2005年にも子供のためのプログラムでもN響の指揮台に立ちました。心から哀悼の意を表するとともに、小澤さんの類まれなる芸術的成果と世界の音楽界への貢献に対し、敬意と感謝を申し上げます。NHK交響楽団」と偉大な功績を称え、感謝の意を表した。

https://mainichi.jp/articles/20240209/spp/000/006/158000c

Courtesy + copyright
Link_https://twitter.com/GyyARm5pyYHddh0/status/1756103530438598952
8:51 AM · Feb 10, 2024, 1.4M Views

追悼 小沢征爾 「N響事件」
「N響事件」について、「クラシックジャーナル」編集長などを務めた作家の中川右介さんの著書『至高の十大指揮者』(角川ソフィア文庫)から引用

Seiji Ozawa

小澤はまだ27歳の若輩で、大半の楽団員は年長だ。しかも、N響の楽団員は東京藝術大学の卒業生が多く、新興の桐朋を出た小澤を見下す雰囲気にあった。小澤が遅刻したとか、ミスをしたとか、さまざまな要因が積み重なったところに、11月の定期演奏会が新聞で酷評されると、楽員代表による演奏委員会が「今後小澤氏の指揮するコンサート、録音演奏には一切協力しない」と表明する事態に発展した。楽団員は積極的に取材に応じ、いかに小澤が無礼な若者か、音楽の伝統を知らないかを吹聴した。マスコミは、小澤を「海外で賞をとり、チヤホヤされて増長した困った若者」という論調で揶揄し、批判した。これに危機感を抱いたのは、同世代の若い文化人たちだった。演出家の浅利慶太や作家の石原慎太郎は、小澤を救うために団結した。N響が小澤に「協力しない」と内容証明を送ってきたので、小澤サイドは契約不履行と名誉毀損で訴えるなど、泥沼化していった。小澤はデトロイトへの客演のため1月22日からアメリカへ行くが12月1日には帰国する予定だった。契約当事者でもあったNHKは、小澤との契約期間が12月いっぱいだったので、小澤に「病気になったことにして、12月いっぱいはアメリカにいてくれないか」と、「誰も傷つかないが姑息な解決」を打診したが、小澤は断った あくまで、12月11日から13日までの定期演奏会と年末恒例の第九を指揮する姿勢を示した。4日にリハーサルが始まったが、楽団員はボイコットして来ず、翌5日に事務局に小澤の降板を求めた。6日に事務局は楽団員に対し、定期演奏会に出れば、「第九」は小澤に振らせないと密約を持ちかけた。浅利たちはNHKという巨大組織を巻き込んで戦線を拡大する戦術を取った。「演奏会中止」をNHK側から言わせるよう、この日は偶然にも、小澤の恩人の田中路子が、声楽としての引退コンサートを日比谷公会堂で開いた日でもあった。
 しかし、定期演奏会が予定されていた12月11日、小澤征爾は会場の東京文化会館へ向かった。ステージには楽団員の座る椅子と譜面台が並び、指揮台もあった。楽団員さえ来てくれれば、いつでも始められる状態だった。そんなステージに、小澤はひとりで座り、楽団員を「待って」いた。その様子が取材に来た報道陣に撮られ、新聞には「天才は一人ぼっち」「指揮台にポツン」などの見出しで報じられた石原慎太郎と浅利慶太が「誰もいないステージ」の場面で、小澤に「孤独な天才」を演じさせ、カメラマンを呼んで撮らせたのだ。そういう裏の事情は関係者しか知らない。ステージにひとりしかいない写真で、世論は一気に小澤に同情的になった。「若き天才」を「権威主義で意地の悪い狭量な楽団員」がいじめている構図になったのだ。
指揮者と楽団とのトラブルは世代間闘争へと発展していった。若き天才たちにとっては「他人ごと」ではなかったのだ。中止が決まると、石原、浅利のほか、三島由紀夫、谷川俊太郎、大江健三郎、團伊玖磨、黛敏郎、武満徹といった当時の若手藝術家、文化人たちが「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、N響とNHKに対して質問状を出すなど、社会問題となっていく。  この渦中に、恩師のミュンシュが来日した。日本フィルハーモニーへ客演するために来日していた。1963年1月15日、「小澤征爾の音楽を聴く会」という名称の演奏会が、日比谷公会堂で開かれた。オーケストラは日本フィルハーモニーで小澤の指揮でシューベルト《未完成交響曲》やチャイコフスキーの交響曲第五番などが演奏され、聴衆は熱狂的な拍手を送った。三島由紀夫は翌日の朝日新聞に「熱狂にこたえる道 小沢征爾の音楽会をきいて」と題してエッセイを書いた。〈最近、外来演奏家にもなれっこになり、ぜいたくになった聴衆がこんなにも熱狂し、こんなにも興奮と感激のあらしをまきおこした音楽会はなかった。正に江戸っ子の判官びいきが、成人の日の日比谷公会堂に結集した感がある。〉
 小澤は、17日に吉田秀和、黛敏郎らの仲介でNHKと和解した。訴訟を取り下げるという意味で、N響へ復帰するわけではない。
18日、小澤は羽田空港からアメリカへ飛び立った。この一連の出来事は「N響事件」と呼ばれる。これが小澤の勝利を象徴していた。「ベトナム戦争」がベトナムでは「アメリカ戦争」と呼ばれるように、この事件はN響にとっては「小澤事件」なのだが、世間でそう呼ぶ人はいない。誰もが小澤サイドに立ったので、「N響事件」となったのだ。
このとき小澤が「深く反省」し頭を下げてN響に復帰していたら、「世界のオザワ」は存在しない。出世術としても藝術上の成長の面からも、この青年は日本を離れたほうがよかった。すでにヨーロッパとアメリカで名は知られている。カラヤン、バーンスタインミュンシュという超大物の後ろ楯もあれば、最強のマネージメント会社もついていた。日本にいる必要など、なかったのだ。日本を出た小澤は、以後、そのキャリアのほとんどを「日本人初」として達成していく。

長くて失礼しました。最後までお読みいただきありがとうございます。


小澤征爾さんを失って  村上春樹さん寄稿
2024年2月11日

screenshot from Asahi.
Screenshot from Asahi. ここに載せた写真とスクリーンショットは、すべて「好意によりクリエーティブ・コモン・センス」の文脈で、日本美術史の記録の為に発表致します。CCCS.

2016年、ベルリンで一緒にビールを傾ける=村上春樹さん提供

 亡くなってしまった小澤征爾さんのことを思うと、いくつもの情景が次々に頭に蘇ってくる。様々な思いももちろん胸に去来し、それなりに渦巻くわけだが、それより前に浮かび上がってくるのはいくつかの断片的な、具体的な情景だ。そしてそれらのエピソードのほとんどにはユーモラスな要素が含まれている。

 ジュネーヴの古いコンサートホール、その楽屋で僕は征爾さんの手を思い切りごしごしと撫でていた。征爾さんはその夜、ヨーロッパの学生オーケストラを指揮したのだが、指揮を終えた直後に倒れ込んで、意識を失ってしまったのだ。まわりに医師もいないし、どうしていいかわからないので、とにかく僕は楽屋のソファに横になった彼の手を握って、「征爾さん、征爾さん」と声をかけながらその手足をこすり続けた。少しでも血行を良くしようと思って、ずいぶん長い時間。でも意識はなかなか戻らなかった。

 もしこのまま亡くなってしまったらどうしようと思うと、正直言ってとても怖かった。この大事な人をこんな風に簡単に失ってしまうわけにはいかない。でもとりあえず、必死に手足をこすり続ける以外に僕にできることは何もなかった。でもそうしているうちに、やがて意識は少しずつ戻り、目が開き、なんとか身体を起こせるようになった。そのときどれほどほっとしたことか。

 「指揮する前に、腹が減ったんで、つい赤飯をぺろっと食べちゃったんだよね」と翌日、けろりと回復した彼は告白した。「きっとそれがいけなかったんだな」

 当時征爾さんは癌の手術を受け、食道の一部を切除したばかりだった。重いものは食べてはいけないという厳しい指示を医師から受けていた。赤飯みたいな消化の良くないものを食べていいわけはないのだ。それでも「すごくおいしそうだったから」と赤飯をぱくぱく食べて、そのまま舞台に立って指揮してしまうのがこの人の生き方というか、あり方だった。音楽的成熟とは対照的に、子供がそのまま大きくなってしまったような部分がこの人にはあった。おかげで僕は、夏のスイスで大量の冷や汗をかかされることになった。ちなみにその夜の演奏は素晴らしいものだった。

 ウィーンの街角を二人で歩い…
続き:
https://www.asahi.com/articles/ASS2B5223S29ULZU00L.html


小澤征爾が世界で活躍するきっかけにもなったN響事件が話題になっている。大先輩に当時の話を聞いても「生意気だったから」という言葉しか返ってこないけど、改めて振り返ると日本人の本音を言わない建前文化とか若い優秀な世代の台頭への反発とか日本中で繰り返されてきた因習の発露なんだと気付く。

小澤征爾

The NHK Symphony Orchestra Incident, which led to Seiji Ozawa’s success on the international stage, has become a hot topic. When I ask my seniors about what happened back then, all they say is “Because he was impertinent,” but when I look back on it, I see that the tatemae culture of not expressing Japanese people’s true feelings and the backlash against the rise of the young, talented generation are repeated all over Japan. I realized that this is a manifestation of the customs that have been passed down.

【追悼】小澤征爾さん
1963年アメリカCBSの職業当てクイズ番組What’s My Line?に出演の小澤征爾さん。解答者にウディ・アレンが!! ちなみに小澤さんアレン共に1935年生まれ

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