アルノルト・シェーンベルク Schönberg, Arnold Franz Walter

アルノルト・フランツ・ヴァルター・シェーンベルク(Arnold Franz Walter Schönberg, 1874年9月13日 – 1951年7月13日)は、オーストリアの作曲家、指揮者、教育者。 十二音音楽の確立 1910年代後半、シェーンベルクは大作のオラトリオ『ヤコブの梯子』(作品番号なし)に挑むが、第一次世界大戦で召集されたためにその他の多くの作品と共に未完のままに終わった。同じ頃、弟子のベルクはオペラ『ヴォツェック』を完成する。シェーンベルクらと始めた無調主義によるオペラである。無調主義が次第に市民権を持ちはじめると共に、無調という方法に、調性に代わる方法論の確立の必要性を考えるようになっていった。それが「十二音音楽」であった。 12の音を1つずつ使って並べた音列を、半音ずつ変えていって12個の基本音列を得る。次にその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作り同様に12個の音列を得る。更にそれぞれを逆から読んだ逆行を作り、基本音列の逆行形から12個の音列を、そして反行形の逆行形から12個の音列を得ることで計48個の音列を作り、それを基にメロディーや伴奏を作るのが十二音音楽である。一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、別の音列が混ざることは原則としてない。したがって、この12音音楽は基本となる音列が、調性に代わるものであり、またテーマとなる。そして音列で作っている限り、音楽としての統一性を自然と得られる仕組みとなっている。 この手法でシェーンベルクが最初に書いたのが、全曲が十二音技法で書かれた『ピアノ組曲』(作品25、1921~23年)の「前奏曲」(1921年7月完成)である[40]。作品番号では『5つのピアノ曲』(作品23、1920~23年)が先立っているが、十二音技法による第5曲「ワルツ」は1923年2月の完成とされている。ヴェーベルンも1924年、『子どものための小品』の中で十二音音列を使った作品を書き、ベルクもすぐにその技法を部分的にとり入れた。 ただし12音の音列による作曲法はシェーンベルクの独創とは言えない。というのも、ウィーンの同僚であったヨーゼフ・マティアス・ハウアーが、シェーンベルクより2年ほど前に「トローペ」と言われる12音の音列による作曲法を考案しており、1919年にハウアーが作曲したピアノ曲『ノモス』は最初の十二音音楽と見なされている[41]。この年、シェーンベルクはこの作品を自身の演奏会で紹介しているが、ハウアーが十二音音楽の創始者であることに固執したこともあり、シェーンベルクとその理解者でベルクの弟子でもある哲学者・音楽学者のテオドール・アドルノの2人から酷評されてしまう。 弟子のヴェーベルンが、音楽をパラメータごとに分解してトータル・セリエリズムへの道を開き、形式上の繰り返しを否定し変容を強調したのに対し、シェーンベルクは無調ながらも、ソナタや舞曲など従来の形式を踏襲している。また、初期の無調音楽は部分的には機能和声で説明できるものが多く、マーラーやツェムリンスキーなど高度に複雑化した和声により、調性が曖昧になっていた後期ロマン派音楽の伝統と歴史の延長線上に位置する。 厳格でアカデミックな(ただしかなり偏った解釈でもあった)教育方針は古典作品の徹底的なアナリーゼを基礎としていた。十二音技法の開拓後はリズム、形式面で古典回帰が顕著で、彼自身も新古典主義との係わりを避けることは出来なかった。 すべての12音の音列をハウアーは44のトローペ、柴田南雄は35のヘクサコルド[42]へ再度分類しているが、シェーンベルクとルネ・レイボヴィッツはこれらの分類を行わなかった。 美術をはじめとする芸術一般にも興味を持ち相互に影響した。シェーンベルクの描いた表現主義的な『自画像』は(フェリックス・メンデルスゾーンなどと同じく)画家としての才能も示している。ロシアの画家ワシリー・カンディンスキーはシェーンベルクのピアノ曲演奏風景をそのまま『印象・コンサート』(1911年)という作品にしている。

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