フランツ・シューベルト Schubert, Franz

フランツ・ペーター・シューベルト(ドイツ語: Franz Peter Schubert、1797年1月31日 – 1828年11月19日)は、オーストリアの作曲家。 1827年にグラーツへ短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてウィーンに留まった。その間、たびたび体調不良に襲われている。 晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。1つ目は1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。2つ目はオペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけ、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したが拒否され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。そして3つ目は1827年3月26日(ベートーヴェンの命日)に行われた、人生で初めてで生前唯一の、彼自身の作品の演奏会である。 1827年に、シューベルトは歌曲集『冬の旅』(作品89, D 911)やヴァイオリンとピアノのための『幻想曲 ハ長調』(作品159, D 934)、2つのピアノ三重奏曲(第1番 変ロ長調 作品99, D 898、第2番 変ホ長調 作品100, D 929)を書いた。 1827年3月26日、ベートーヴェンが死去。ウィーン市民2万人の大葬列の中、シューベルトは棺を担ぐ大任を負った。その後、友人たちと酒場に行き、「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。このとき友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたという[3][4]。そして、彼の寿命はその翌年で尽きた。生まれ故郷であるウィーンをほとんど離れることがなく、生涯一度も海を見ることがなかったという。 最晩年の1828年、『ミサ曲第6番 変ホ長調』(D 950)、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ』(D 962)、『弦楽五重奏曲 ハ長調』(D 956)、『ミサ曲第4番』のための2度目の『ベネディクトス』(D 961)、最後の3つのピアノソナタ(第19番 ハ短調 D 958、第20番 イ長調 D 959、第21番 変ロ長調 D 960)、『白鳥の歌』として有名な歌曲集(D 957/965A)を完成させた。この歌曲集の内の6曲はハインリヒ・ハイネの詩につけられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集『歌の本』は1827年秋に出版されている。 また上記の通り、同年3月26日のベートーヴェンの命日には、シューベルトにとって最初で最後の自作による演奏会が行われており、演奏会自体は大衆的にも財政的にも成功したものの、直後にニコロ・パガニーニがウィーンで演奏会を行ったことで影が薄くなってしまった。 シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(のちにアントン・ブルックナーの師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いた。しかし何度かのレッスンのあと、ゼヒターはその知人からシューベルトは重病と知らされた。11月12日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトの最後の手紙となった。 その後、シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、11月14日になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。31歳没。フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。 遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあったヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。1888年に両者の遺骸はウィーン中央墓地に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も2人の当時の墓石が残っている。 死後間もなく小品が出版されたが、当時の出版社はシューベルトを「シューベルティアーデ(ドイツ語版)のための作曲家」とみなして、大規模作品を出版することはなかった。 シューベルトの死因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、エステルハージ家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも言われている。シューベルト生誕200年の1997年には、改めてその人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も制作され公開された。

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