内田 裕也 Yuya Uchida + 樹木 希林 Kirin Kiki Yuya Uchida + Kirin Kiki



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アップデート
本木雅弘さん「ただただ感謝」 義父の内田裕也さん死去
NHK、2019年3月18日
ロック歌手の内田裕也さんが亡くなったことを受けて、内田さんの長女、也哉子さんの夫で、俳優の本木雅弘さんがコメントを出し、「ただただ感謝しかありません」と別れを惜しみました。
コメントによりますと、本木さんは、仕事で滞在していたロンドンで妻から電話で訃報を伝えられたということです。
内田さんと最後に会ったのは、今月10日に長男と次男を連れて病院に見舞いに行ったときで、そのときの様子について、熱はあったもののとても穏やかで、孫たちの話にもうれしそうにうなずいていたと記しています。
そのうえで、「容体を見守る日々の中で、私も妻もどこかで覚悟はしておりました。時代を切り開いてきた業界の先駆者を失くしたという事においても非常に残念ですが、岳父として、常に紳士的に接してくれた事に、ただただ感謝しかありません」とコメントしています。
樹木希林さんと別居40年 型破り夫婦
内田裕也さんと樹木希林さんは昭和48年に結婚しましたが、すぐに別居生活を送ることになりました。
昭和51年には娘の内田也哉子さんが生まれましたが別居状態は変わらず、昭和56年には内田さんが一方的に離婚届を提出したものの、樹木さんは裁判で離婚の無効を訴えて勝訴しました。
その後も2人が一緒に暮らすことはありませんでしたが、夫婦であり続け、型破りな関係は40年以上続くことになりました。
樹木さんの生前のことばを紹介する著書「一切なりゆき~樹木希林のことば~」によりますと、樹木さんは晩年、内田さんとの関係を振り返り、「若い頃の私は、裡(うち)にマグマみたいな激しい感情や自我を抱えていて、『こんな状態でどうやって生きて行けばいいんだろう』と戸惑っていた。そんな時、更に激しい自我を持つ内田に出会ったのね。彼と一緒にいると、自分は意外とまともなんじゃないかと、楽な気持ちになれた。だから、実は救われたのは私のほうなんです」と語っていました。
また互いに離れていながらも夫婦であり続けたことについて、「この何十年間、無駄だったかなとも思うけれど」としながらも「遠慮もあり、相手を労わる気持ちもあり、尊重もし、なかなかいい状態の関係になれたんですよね。こういう夫婦の形もありかなと思います。私は今、あの主人と出会ったことは、私の人生の中で、大変な宝です、と言える気がしています」と振り返っていました。
娘の也哉子さんも去年9月の樹木さんの葬儀であいさつを述べた際、「私にとって母を語るのに、父 内田裕也なくしては語れません」と述べたうえで、幼いころに樹木さんと交わしたという会話を紹介し、「私が『なぜこういう関係を続けるのか』と母を問い詰めると、平然と『だってお父さんには、ひとかけら純なものがあるから』と私を黙らせるのです。自分の親とはいえ、人それぞれの選択があると頭では分かりつつも、やはり、私の中では永遠に分かりようもないミステリーでした」と両親のことを振り返っていました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190318/k10011852351000.html
内田裕也さんに別れ、950人が参列 内田也哉子さん弔辞 FUCKIN’ YOU YUYA UCHIDA. DON’T REST IN PEACE. JUST ROCK’N ROLL.
令和8年8月14日のアップデート
内田裕也 妻・樹木希林の遺骨を勝手に持ち帰り「やっぱ怖え〜な!」と返しに来た男 半年後、79歳で逝った
留置場の部屋番号が「69(ロック)」だったというだけでテンションが上がった
妻の火葬では遺骨を勝手に持ち帰り、数週間後に「やっぱ怖え〜な!」と返しに来た
“日本のロック界のドン”内田裕也の、破天荒すぎる79年
【生い立ちと歩み】
1939年 兵庫県西宮市生まれ、大阪府堺市で育つ
1950年代 プレスリーへの憧れから学校へ行かなくなり、高校を退学・転校
1959年 渡辺プロに所属し「日劇ウエスタンカーニバル」で本格デビュー
1966年 ビートルズ日本公演で前座を務め、同年ザ・タイガースをスカウト
1973年 悠木千帆(のちの樹木希林)と結婚、1年半で別居
1981年 一方的に離婚届を提出するも、希林が離婚無効訴訟を起こして阻止
1991年 東京都知事選に出馬
2018年 9月、樹木希林が死去
2019年 3月17日、肺炎のため79歳で死去
【マザコンだった発明少年】
1. 母だけが庇ってくれた
40歳を過ぎた母の子として生まれ、年の離れた兄に殴られているとき唯一庇ってくれたのが母だった
自ら「マザコンの気がある」と語るほど母を慕っていた
2. 真面目な少年を変えたプレスリー
少年時代は発明に熱中する勉強熱心なタイプで、中学では生徒会副会長も務めた
しかしプレスリーへの憧れから学校へ行かなくなり、高校を退学、日大の夜学も中退して音楽の世界へ
【日本のロック黎明期を牽引】
3. ビートルズの前座、そしてタイガース発掘
1966年のビートルズ日本公演では尾藤イサオとのツインボーカルで前座を務めた
同年、大阪のジャズ喫茶で活動していたファニーズ(のちのザ・タイガース)をスカウトしている
4. ヒット曲のない”ロック界のドン”
「日本のロック界のドン」と称されながら、自身では「ヒット曲といえるものがない」と自虐していた
彼の本質は楽曲ではなく、生き様そのものにあった
【破天荒すぎる伝説】
5. 留置場の部屋番号が「69」
1977年に大麻取締法違反で逮捕された際は、釈放後に「マリワナは決して攻撃的にならない。アルコールよりも健康的」と悪びれず語り物議を醸した
2011年の逮捕時には、留置場の部屋番号が「69(ロック)」だったためテンションが上がっていたという
6. トイレの鏡に映る”自分”にブチギレ
スナックのトイレで鏡に映った自身の姿を他人と勘違いし「てめぇ何見てんだ」と怒鳴り散らした挙句、鏡を殴りつけて拳を血だらけに
店に戻ると「便所に生意気なヤツがいてな」と平然と語っていたという
7. 金属バットで太秦に乗り込む
「東京の人間は太秦に行くとイジメられる」と聞き、初めて撮影所に入る際は金属バットを持参
「おい、かかって来いよ」と威嚇しながら乗り込んだ
8. 殴ろうとして、やめた相手
桑名正博が歌謡曲調の曲をヒットさせた際は、深夜1時にプロデューサーへ電話し「裏切り者!」と激怒
フォークを敵視し吉田拓郎には喧嘩を吹っ掛けようと画策していたが、矢沢永吉を殴ろうとしたときは「一発殴ってください」と返されてその意気に感じ入り、殴るのをやめて高く評価した
9. 1991年、東京都知事選への出馬
政見放送では冒頭で10秒間沈黙したのち、アカペラでジョン・レノンの『パワー・トゥ・ザ・ピープル』を熱唱
選挙公報には「NANKA変だなぁ! キケンするならROCKにヨロシク!」と手書きした
落選したが、無所属ではトップの5万4654票を獲得している
【樹木希林との43年半】
10. 出会って1ヶ月でスピード結婚
1973年、ドラマ『時間ですよ』のスタジオで悠木千帆(のちの樹木希林)と出会う
2ヶ月後に六本木の寿司屋で偶然再会して意気投合し、出会ってわずか1ヶ月で結婚した
11. 1年半で別居、43年半の”夫婦”
激しい酒乱に対抗するため、希林がマンションを別に用意して追い出す形で1年半で別居に
1981年に内田が一方的に離婚届を提出した際は、希林が離婚無効訴訟を起こして阻止
別居生活は43年半に及んだ
12. 不倫相手にも「ありがたい」
内田が逮捕を繰り返しても、希林は「寂しいんだと思う」と寄り添った
度重なる不倫相手にさえ「夫を支えてくれてありがたい」と感謝を伝えていたという
13. 娘と本木雅弘を引き合わせたのも内田
父の日の約束をすっぽかした翌日、内田が娘の也哉子を寿司屋に呼び出す
そこにたまたま同席していたのが本木雅弘であり、これが結婚のきっかけとなった
【妻の死、そして半年後】
14. 「啓子、しっかりしろ!」
2018年9月15日、希林が息を引き取る間際、也哉子が繋いだ電話越しに内田は「啓子(希林の本名)、しっかりしろ!」と叫び続けた
その声が聞こえた瞬間、昏睡状態の希林は孫の手を強く握り返したという
15. 遺骨を持ち帰り、返しに来た
希林の火葬の際、内田は「ちょっと待ってくれ!」と車椅子から立ち上がり、遺骨の一部を拾ってハンカチに包みポケットにしまった
しかし数週間後、也哉子のもとを訪れ「やっぱ怖え〜な! そっちでちゃんとヨロシク!」と返却している
16. 2019年3月17日、79歳
最晩年は体力が極度に低下し車椅子での生活を余儀なくされていた
そして希林の死からわずか半年後、肺炎のため急逝
【Rock’n Roll葬】
17. 祭壇に「Rock’n Roll」の文字
2019年4月3日、本人が生前に指定していた青山葬儀所でお別れの会が営まれ、950人が参列
横尾忠則が手がけたポスターをモチーフにした祭壇の中央には、大きく「Rock’n Roll」の文字が飾られた
戒名は「世に響かせる」という意味を込めた「和響天裕 居士」
18. 崔洋一監督の弔辞
堺正章は「私にとって悪しき手本であり、その中に魅力がつまっていた」と語る
崔洋一監督はこう言葉を贈った
「裕也さん、安らかに眠るな。荒ぶる魂を永久に我らに」
19. 也哉子の伝説の謝辞
喪主を務めた也哉子は、父と過ごした時間が数週間にも満たず、遺骨になっても涙が出なかったと率直に告白
しかし集まった人々の中に父の真実を感じ、「ズルい奴ではなかった」「地位も名誉もないけれど、どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる」と語る
そしてスピーチをこう締めくくり、会場は大きな拍手に包まれた
「Fuckin’ Yuya Uchida, don’t rest in peace, just Rock’n Roll!!!」
――安らかに眠るな、ただロックであり続けろ
43年半別居しながら、ついに離婚だけはしなかった夫婦
妻の死から半年後、内田裕也は最後まで内田裕也のまま逝った。











